筑前博多善導寺の歴史

博多善導寺は福岡市博多区蓮池町にある浄土宗鎮西派の古刹であります。ここでは、縁起や地誌をたどりながら、当寺のゆかりをたずねてみましょう。

浄土宗 光明山悟真院 筑前博多 善導寺善導寺縁起は『蓮門精舎旧詩』に採録されている元禄9年(1696)の奥書のあるものが今のところ一番古く、それは次のような話にはじまります。

建暦年中(1211 1213)のこと、中国から博多へ向かう帰帆の船に、船板に名号を書いて嵐を鎮めるまでの奇瑞を行う一人の僧が便乗し、博多に着岸するや木像となって光明を放ち、虚空にあがって箱崎松原に降りました。そのころ、聖光上人は豊前彦山で念仏勧行中、唐僧善導大師が博多へ着かれる霊夢を感じ、同じ夢告のあった彦山座主蔵慶とともに、博多津へ急ぎました。やがて松原樹下に善導大師の真影を見出し、当寺において香花を備えて安置しました。ここはもと法相宗の廃趾で、以後浄土宗となり、聖光上人の百日説法が行われたことにより、談義所ともいわれていました。
浄土宗 光明山悟真院 筑前博多 善導寺善導寺のある蓮池町の名は、数町南の栄西ゆかりの禅刹聖福寺の蓮池があったことに因むといわれています。そして聖福寺裏から善導寺の東側を流れる石堂川は、中世末(元亀のころという)、御笠川の流路を人工的に変えたもので、博多の東の要害として「松原の堀切」といわれていました。それまでは博多は箱崎松原と連続していたのです。近世、当時辺りが寺町として形成されるのですが、博多善導寺草創の寺地について、当地か否かは明瞭ではありません。談義所の別名があるところから、今よりもっと西の浜側、旧妙楽寺町あたりではなかったかといわれることもありますが、いまは確かめるすべもありません。

ともあれ、この建暦年中(二年正月)は、法然上人入寂のときであり、善導大師の教えに開眼されて我が国の浄土宗開祖となられた法然上人と、それを受け継ぐ聖光上人の三人の糸を結んで、中国大陸からの窓口である博多を舞台に、善導寺の草創が語られているものと受けとることができるでしょう。そして、それに彦山が加わるのも、聖光上人と彦山とのかかわりにふれるものは多いし、三祖記主禅師を聖光上人のもとへ走らせたのも、彦山の生仏法師祐阿であったともいいます。
善導木像来朝の話の次に、その船の船主が船の碇石に地蔵を刻んで寺納した碇地蔵、一字三礼阿弥陀経、末代念仏授手印、そして善導大師像をあげているのは、この縁起の原型がほぼできあがったころを知られているようでもあります。それは浄土宗の宮廷接近を背景に、当地では、大内氏の博多掌握とその保護のなかで、博多善導寺が盛期に向かうころとも考えられます。
縁起本文はその末尾に、中興開山西蓮社廣誉上人にふれています。武州金川の人で、文明二年(1470)筑後の善導寺から博多善導寺に移り、仏殿、善導堂を建立、延徳三年(1491)12月10日、70歳で没したということです。

浄土宗 光明山悟真院 筑前博多 善導寺善導寺において廣誉上人は聖光上人から六代をおいて八世にあたると伝えるものもありますが、今の世代数は中興を基点にし、その世代数のとり方は元禄ごろには確認できます。ところで、筑後『善導寺志』には、「第十一世大連社廣誉廓山上人」としてあげ、応仁の大乱に際し、筑後の寺も兵燹を蒙り、旧記什宝は散逸、その乱を避けて博多に移り、善導寺を建てて隠栖したと伝えています。それ故筑後の寺の什宝が博多の寺に伝わっているのだといいます。蓮社号も異なり、没年も文明17年(1485)3月10日として違いがありますが、廣誉上人の移転については両寺において伝えられ、勅願寺化前史を知らせてくれるものでもあるでしょう。
勅願寺の綸旨は二世冏誉にあてられ、紀年をしるさないが、朝廷の公の記録掛であった小槻晴富の日記『晴富宿弥記』の文明十二年(1480)2月21日の条に、勅願寺としての勅許を三ヶ寺より申請され、攝州の慈雲院に決まっていたものを、浄教寺立誉の懇望によって、その日善導寺に書き改めたことが記述されています。前年から善導寺の僧侶も上洛していることを記し、翌22日には、浄教寺とともに善導寺閭誉上人(冏誉上人のことと思われる)が来たことを記述しています。いかにも博多に浄土宗勅願寺を置くことに、宮廷に近い蓮門有力者達が奔走し、そこに善導寺住職も馳せ参じていた様子がみえるようであります。


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